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その罪の無い笑顔に、好意は期待できない。

「ご、ごめんなさい。でも僕、キスが出来て、物凄く嬉しかったのです」

「えっ」
しまった、何て事を! もう鶴前さんの顔が見られないよ!
「何でもないです!」

腿を押さえながらダッシュで営業部を飛び出すと、エレベーターの前に来た。
急いで下向きのボタンを押したけど、なかなか来ない。
「あ、何で。口走ってしまったのだろう」
汗が出てきた。きっと今頃、鶴前さんは僕を変態だと思っているだろう。
もう二度と合えないかもしれない。覆水盆に返らず、ああ、僕は何て事を。

「ケンちゃん」
「ぎゃんっ」
「……そんなに大きな体で、きゃんって鳴くの? 可愛いなあ」

どうして追いかけてきたのだろうか。
恥かしくて逃げ出したのに、こうして追い討ちをかけて止めを刺したいのだろうか。

「一万円を返すね」
「あ、すみません……」
そうか、このせいか。恥かしいな。

「それからこれ、僕の携帯番号とアドレス。学校が終わったら連絡をくれるかな? 忙しかったらバイトをお願いしたいので」
「あ、はい」
 番号の書かれたメモをくれた。さっきの事は聞き流してくれたのかな? 


「それから……仕事とプライベートは別にしたいのだけど」
 あっ。やっぱり、告白もしていないのに振られるのか。あんな言い方では当然、嫌われるよな。


「ケンちゃんといると楽しいよ。仕事は進むし、今まで張り詰めていた事が楽になった。それに、何かドキドキするし」
「えっ?」

半開きの唇が艶かしい。そ、その唇がキスしてくれたのだよね。

「ケンちゃん、僕は」
その先が聞きたいのに、無情にもエレベーターが到着した。
そしてドアの向こうから生理的に受け付けない人が現れた。

「ハル! お迎えをしてくれたの」

 ……大和さん。どうしているの?


「お疲れ様です、大和さん」
「ランチに行こうよ、ハル! おなかが空いてさ、会議どころじゃ無かったよ」

僕をスルーしているのは構わないけど、昨夜の電話の調子と全然違うし、やけにべたべたしているなあ!

「あれ、犬飼くんじゃないか」
「僕は犬山です、部長」
「ああ、すまない。きみは学校じゃないのかね? どうした?」
「いえ、その。忘れ物をしたので……」
「そうか」
部長と話をしていても大和さんに連れて行かれた鶴前さんが気になる。
遠くなる後姿をみていたら、部長が肩を叩いた。

「ハルくんが作成したデータのおかげで、大和は大口の取引が成立したのだよ」
「それでハイテンションなのですか」
「それとまあ、もう一つ良い事があって」
 
まだあるのか。大和さんの気分とは逆な人生を歩みそうだな、今の僕は。

「迷惑小僧、結婚が決まったのだよ」
「はいっ? 相手は?」
我侭な大和さんに、本当に相手がいたのか。

「お付き合いして、もう五年になる女性でね。プロポーズの返事が今朝あったそうで、あのハイテンションさ。しかし、きみはどうしてそんなに興味を示しているのかい?」
「あ、いえ。その」
「ああ、ハルくんが心配なのか。大丈夫だよ、聞いたら喜ぶさ」
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朝は筋肉痛で容易に起き上がれなかった。
腰も痛いけど足が重い。バスケで鍛えていたのに何故だ。

「ケン、学校はお休みなの?」
母さんが山の様な洗濯物を担いでいる。朝から大変だな。本当に女性は強い。
「午後から行くよ」
「大学生はのんきでいいわねえ。で、バイトはお休み?」
「うん、一日中勤務出来る日だけだから。週に三日しか行かないな」
 
そうだ。それを鶴前さんに言っていなかった! 
気持ばかりが先走って立ち上がったら激痛が全身を貫いた。
「痛い!」
 しかし、行かなくちゃ。僕を待っている人がいるのだ。
「ケン、大学は午後からでしょう?」
「バイトだよ、バイト!」
「よくわからない子ねえ」
「母さん、湿布はどこ?」
 
腰と足に湿布を貼って、ぎしぎしと動く体を無理やり前に進めた。
乗った電車の揺れる度に電流が走るよう。
このくらい、数時間で消えるはずだ、頑張れ、自分。

会社に着くと急いでエレベーターに乗った。
五階を押して、やれやれと一息つく。
今頃は電話の洪水だろうか、少しでも役に立てたら良いのだが。
焦る僕に合わせたのか、エレベーターはチンと音を鳴らして扉を開けた。

「えっ」
 開いたドアの向こうに鶴前さんがいた。

「おはようございます」
僕を見てびっくりしながらも笑顔で挨拶をしてくれた。あ、今日も可愛らしい。

「お、おはようございます。あ、もう五階に着いたのですね」
「違うよ、ここは三階。ケンちゃん、今日はお休みではなかった?」
 
あ、知っていたのか。人事担当に聞いたのかな。
エレベーターに乗り込んできた鶴前さんを見ながらドアを閉めた。

「すみません。昨日その事を伝え忘れていたので、鶴前さんに迷惑をおかけしていないかと心配で……来てしまいました」
「責任感が強いね。わざわざありがとう」
今日もブランド物のスーツだなあ。
スリムなデザインで、仕立てが良いのがわかる。

「そうだ、ケンちゃん。お金を返すから営業部までいいかな」
「お金?」
「タクシー代だよ。あれからちゃんと帰れたの? 一万円札を渡すなんてきざな真似をしなくて良いのに。心配したよ」
「あ、歩いて帰りました」
「えっ。大丈夫? だって自宅は隣街だろう、電車で三つ向こうの駅だから……」
「大丈夫です。犬ですから!」
僕の言い方がさぞおかしかったらしく、鶴前さんが噴出した。ああ、この笑顔が好きだ。
談笑しながら営業部に着いたら、電話もならない静かな空間だ。昨日とは違うな。

「実は朝から電話回線が不通でね。パソコンも使えない状態なのだよ」
「えっ! 大変な事態じゃないですか!」
「でも今日は営業担当が会議だからね、特に支障はないし。さっき商品部のパソコンが起動したから、ここも復旧するだろう」
 さらっとしているけど大変なことでは?

「気にしないで、学校へ行きなさい」
「でも、復旧したら入力もあるでしょう?」
「ケンちゃんは学生だ。学業を優先して」
「じゃあ、終わったらまた来ます!」
「えっ。悪いよ、そんな……」

「僕は前鶴さんの力になりたいのです」
「え」
鶴前さんが椅子に座り損ねて床に尻餅をついてしまった。

「わわ、大丈夫ですか!」
「みっともないところを見られちゃったな」
ふふっと笑って立ち上がろうとしたので手を差し伸べた。
「捕まってください」
「あ、ありがとう」
 ぎゅっと握った手を引き上げようとして、急に足に激痛が走った。

「いてっ!」
「ケンちゃん?」
 しまった、筋肉痛が……。我慢だ、堪えきるのだ!
「何でもないです、気にしないで!」
 
ぐいっと引き上げると、ようやく鶴前さんを立たせる事が出来た。
こんな些細な事でも助けになりたかったので嬉しい。
心の中ではガッツポーズだけど、実際は両膝をついてしまった。ああ、格好悪いな。

「もしかして筋肉痛?」
「はい。鍛えていたのにおかしいですよね」
「おかしくないよ。ごめんね、ありがとう」
 僕の頬に指が触れた。

「可愛い番犬にご褒美をあげたいのだけど、今はこれしかないな」
 
言いながら前鶴さんの顔が、ぐっと近づいた。
甘い香りがした。そして僕の唇に柔らかい何かが触れた。
それは唇を吸って、口の中に入り込んできた。これって、まさか?

「ん」
息遣いに漏れるこの声にビクンとした。やがてゆっくり離れた唇を見つめてしまう。

「あの……」
濡れた唇を指でなぞった。どうしよう、心臓が爆発しそうだよ!

「ケンちゃんの顔、真っ赤だよ。ごめん、ふざけているのではなくて、その」
あ、その先の言葉が聞きたい。もしかして、期待をしてもいいのかな!

「商品部でチョコレートをもらって食べたばかりだから、味が伝わるかなあと思って」
 
はい? 何だって?


「甘かったでしょう?」
「はい。確かに甘かったです。……って、前鶴さん!」
「どうかした?」
本当に天然なのかな。

「からかわないでください」
「そんなつもりは無いよ?」

そっと握り返した。でもきつくないだろうか、凄く心配だ。こんなに細い指だもの。
「もっと、いいよ」
「えっ?」

「もっと、ぎゅっとして」
 
その掠れる声に震えが来た。そしてようやく僕は気づいた。
誰も彼もが鶴前さんに感情を押し付けてばかりで甘えていた。

それをずっと受け止めていた鶴前さんは気丈に振舞いながら辛い気持を隠していたのだ。

「さっきは、すみませんでした」
 目頭を押さえた。僕は大和さんの事を言えない、感情のままに振舞う子供だった。
「何を謝るの。ケンちゃんは正しいよ」
 やさしい声で納得させないで。違うと言って欲しい。もう二度と困らせたくないよ。

「早く大人になりますから」
 振り絞った声は届くだろうか。

「僕でよかったら、甘えてください」
「ケンちゃ?」 
 そんなに潤んだ瞳で見上げられたら、理性が吹き飛びそう。お、落ち着け。
「あ、ほら。あの、僕は体を鍛えているので、どーんと、ぶつかってきても平気ですから」
 いや違う、そうじゃなくて。僕は気持を受け止めてみせるとか、クールに決めたいのに。
「ありがとう」
 言葉が足りない僕の言い方でも伝わったのだろうか。前鶴さんは微笑んでくれた。

 タクシーを拾い、うとうとしている前鶴さんを後部座席に座らせた。
運転手さんにメモを渡して、僕の財布の中から奇跡的に入っていた一万円札を預けて「お願いします」と一礼してタクシーを見送った。
 財布は空っぽだ。さて僕はどうやって帰ろう。ここから家までは、歩くと一時間はかかるかな。

「酔い覚ましだ、歩こう」
 徐々に灯りが消えて行き、眠りに入る夜の街を黙々と歩く。
静寂な空間にたった一人でいる寂しさよりも、自分がまだ大人じゃない現実が辛く感じた。
 
気持を伝えられない、もどかしい子供のままだ。
月日が過ぎただけで二十歳になっていた。いい気になってはいけない。
大人になりたい。大好きな人を安心させたい。僕は鶴前さんの力になりたいのだ。



18話に続くのだ。やけに長いな―。すみません。
「ん、」
 瞼が重そうだけど携帯を操作してユーザーの画面を開いて見せてくれた。
「お借りします」
 携帯を受け取ると鶴前さんが倒れない様に片手で抱き寄せて、急いでメモに住所を書き写す。
これをタクシーの運転手さんに渡せば前鶴さんを運んでくれるだろう。

「……わ!」
 いきなりバイブが鳴ったので驚いた。
こんな時に着信か。
しかも相手の名を見て息を呑んだ。<ヤマト>って、あの大和さんか!

「鶴前さん?」
 呼んでも僕の左脇に顔を突っ込んだまま動こうとしない。
まさか立ったまま寝ているのかな。これでは僕が出るしか無い。

「は、はい。鶴前の携帯です」
『誰?』

「すみません、犬山です」
『……おまえがどうして? ハルは? おまえ、ハルと一緒なのか。今、何時だと思っているのだよ、勝手に連れまわしているのか? ハルと代われよ!』

「前鶴さんはちょっと、電話に出られなくて。あの、お酒を飲んで寝てしまいまして」

『起こせ!』

「そんな」
『急用なのだよ! 早く代われ!』
 電話口で怒鳴る人は初めてだ。そんな人はドラマだけと思っていたけど、本当にいた。

「ハル……鶴前さん、起きてください」
「……ん」
 僕の脇でごそごそと動く前鶴さんが愛しく思える。起こしたくない。だけど……。

「鶴前さん。……大和さんからお電話です」
 言いたくなかった。でも、名を出せばおきる気がした。
「……大和さ、」
 はあ、と息を吐きながら前鶴さんが顔を上げた。
そして前髪をかきあげて足元がふらつき、僕にしがみついた。
「大丈夫ですか?」
「うん、ごめんね。携帯をくれるかな?」
「はい……」
 
携帯を渡すと前鶴さんは開口一番に「すみません」と謝った。
頬を赤くして目を伏せながら、その後は黙っている。
大和さんが怒鳴り続けているのだろうか。……やはり起こすべきではなかった。

しかし大和さんから電話があったのに起こさなかったと知ったら、前鶴さんがへこむ気がしたのだ。
僕は一瞬の判断ミスをして鶴前さんに無理をさせてしまった。唇を噛んで俯いた。
「失礼します」


鶴前さんが携帯を閉じた。
二分くらいだろうけど、凄く長く感じた通話時間だった。

「あの。プライベートの時間なのに、急用で電話がかかったりするのですか」
「営業部だからね。朝一番に片付けてと急な依頼があるのさ」
「それは、でも、時間外でしょう。明日の朝では遅い話なのでしょうか」
 
僕は間違っている。
こんな事は前鶴さんにではなく大和さんに言うべきで……。
さっき松田さんに言われたばかりなのに僕は前鶴さんを責めてしまった。


「ケンちゃん、手をつないでもいいかな」
「えっ?」
 僕の指に細くて折れそうな前鶴さんの指が触れた。
「暖かいね。子供みたい」
 また子供扱いか……。
「鶴前さんよりは子供ですけど、でも、僕も大人になりかけです」
 気持の上で背伸びしてみた。
「ケンちゃんは大人だよ。しっかりしていて頼りになる」
 え、そんな。
「そんなこと、無いですよ」

「……僕も、あの人も大人の振りをしているだけなのかもしれない」

「ええっ?」
 素っ頓狂な声をあげてしまった。

「おかしいだろう、大和さんと僕。個人的な付き合いは一切せずに、仕事上の相方、その絆を信じているのだけど」
 酔っているのかな。頬が赤いのが気になる。
「気がついたら日常の殆どを侵食されていた。弱い僕では大和さんを支えきれない」
 ズキンと胸が痛い。鶴前さんの苦悩の滲んだか細い声が心からの悲鳴に聞える。
「あの、どこかに座りませんか?」

「このままでいて」
 指が絡まってきた。ドキドキしていたら、ぎゅっと握られた。
「鶴前さん?」
「ごめん。嫌じゃなかったら、にぎり返して欲しい」
「い、嫌じゃないです。全然です」
思わず松田さんの隣の鶴前さんを盗み見た。
こんな会話が鶴前さんに聞かれたら悲しい顔をされてしまいそう。

「大丈夫よ、竹中と話し込んでいるから」
 
松田さんが煙草を銜えて火をつけた。
この会社の人は喫煙者が多いのかな。

「大和くんはね、いつも納期の厳しい注文ばかり受けてくるのよ。それを私達商品部が工場側やメーカーさんに頭を下げて何とか間に合わせているのだけどね、その裏事情を知らないから図に乗る。他社よりも早く納品できますなんて、とんでもない営業をするの。顧客は増えるだろうけど会社としてはどうなのかな。メーカーさんとの良き信頼関係が保たれないから諸刃の剣よ。その被害に遭っているのがハルちゃんなのよね」
「ハル……いえ。鶴前さんが?」
 
さっきも大和さんが鶴前さんにコピー機の見積もりを急がせたな。
この目で見たから松田さんの話に納得する部分がある。
しかし被害とは尋常な言い方では無い。

「営業部は事務がハルちゃんしかいない。だから自然と他部署からの苦情はハルちゃんに圧し掛かるの。まあ、殆どが私達商品部からの大和くんに対するクレームだけどね」

「それは直属の上司に訴えた方が良くないですか?」

「賢いわね。だけど無理を通す大和くんは営業の成績が良い。だから上司は黙認しているの。埒が明かないから皆がハルちゃんに愚痴る。でもハルちゃんは大和くんの相方だし、気を使う性格からか、軋轢が生じない様に私達に頭を下げて回って、大和くんには逆に励まして力になろうとする。大和くんはお蔭で気分良く仕事をしているわよ。それが余計にハルちゃんを追い込んでしまうのにね」

 酷い話だ。僕には鶴前さんがあらゆる非難から大和さんを護っていると聞えた。

「只でさえハルちゃんは事務の仕事で手一杯なのに迷惑小僧が難題を押し付ける。大和くんがハルちゃんより二つ年上だからって、気を使いすぎ。そして大和くんは威張りすぎ」
 チューハイを一口飲んだ。氷が説けて薄くなっているはずなのに、舌に苦みが残る。
「ハルちゃんは気を使いすぎて、たまにパンクするの。助けてあげて、ケンちゃん。きみといるとハルちゃんはとても楽しそうだし」
「そ、そうですか?」

 凄く良い事を言ってくれた。嬉しい。

「気が楽になったのだと思うよ。ほら、事務を補佐してもらえるから」
 
そういう事か。
鶴前さんの助けになれたのも嬉しいけど、もっと違う何かを期待しかけていた。
……僕は鶴前さんに対して、本気になっていたのだ。

「見てごらん、ほら」
 松田さんが椅子を引いてくれたので前鶴さんの横顔がはっきり見える。
ああ、楽しそうに笑っているなあ。

「ねえ、可愛い笑顔」
「朝から前鶴さんは笑顔でしたよ」
「ケンちゃんのお蔭。あの愛くるしい笑顔が私達の生きる支えだからさ。頼むわよ、番犬。ハルちゃんが倒れない様に護るのよ!」
 
ドンと背中を叩かれた。女性なのに、何て力強いのだろう。
勢いで咽ているのに甲高い笑い声が聞えている。怖い人だ。

「ケンちゃん?」
 僕の後頭部を撫でながら耳元で囁く人がいる。こ、この声は間違いない。
「そんなに心配そうな顔をしなくて良いのよ、ハルちゃん。大げさよー、番犬はコロッケを喉に詰まらせただけ」

「松田さんが叩いたのを見ましたよ?」
「あらあ。目敏い」
 また甲高い声で笑い出した。世の中で一番強いのは女性だ。僕は今こそ確信した。

「よしよし。おいで、ケンちゃん」
 えっ? 今、何て? 顔を上げたら椅子に座った鶴前さんが自分の膝を指している。
「ハルちゃん、そんなに大きな子を膝に乗せたら骨が砕けるわよ」
「大丈夫、男だもの。さあ、おいで」
 
その言い方にドキンとした。全然酔っていないけど、これは甘えても良いのだろうか。

しかし華奢な膝の上に僕が座ったら前鶴さんが悲鳴を上げてしまうだろう。
……あ、その声が聞きたい。……いや、ダメだ!

「お二人とも自宅が遠いですよね、そろそろお開きにしませんか?」
「あら、もうこんな時間。帰りましょう」

 ああっ! 葛藤しているうちに、話題が変わっている。
……この脱力感はチャンスをふいにしたせいだ。
再チャレンジの機会はあるのだろうか。しゅんとしたまま店を出る。
「今日はありがとうございました」
「私達も楽しかったわ、また明日ね」
 
お姉さん方と店の前で別れて、僕は前鶴さんと二人きりになった。
何だか意識して、何を話して良いのかわからないな。
お酒を飲んだせいか夜風が心地よい。
このままぼうっとしていたら寝てしまいそうだ。
火照った頬をぱちんと叩いていたら、袖を引かれた。

「眠い」
 鶴前さんが僕の腕に寄り掛かった。
「ま、鶴前さん?」
「ごめん……はしゃぎすぎた」
 小さな声で呟くと瞼を閉じてしまった。これがパンクか? 
「鶴前さん、送りますから、自宅の住所を教えてください」
「……飲酒運転は、ダメだよ」
「タクシーで送ります!」
あははと笑い出した前鶴さんにドキドキが止まらない。
まさか、の展開だ。

「お酒くらい、いいじゃない。ダメかな?」
 小首を傾げられて、卒倒しそう。
「喜んで、どこへでもお供します」
 心の中でガッツポーズだ。

 
営業部に戻るとメタボリックな部長が帰り支度をしていた。
「部長、お疲れ様です」
「ハルくんも、お疲れ。大和の奴は勝手だな。どうにかしないといけない」
「でもあれがあの人の良い所ですから」
「そうやってハルくんが甘やかすから、あいつが図に乗るのかもしれないぞ」
「すみません」
 
鶴前さんが謝る事なのか? 元はと言えば大和さんだろう。


「ああ、犬飼くんもお疲れ」
「犬山です」
「おお、すまん」
 部長がのそのそと出て行くのを見ながら、ふっと噴出した。

「名前の呼び違いは多々ありましたが、犬飼と呼ばれたのは初めてです」
「失礼な部長でごめんね、ケンちゃん」
「気にしていませんから。早く飲みにいきましょう」
「そうだね」
 
 先に外に出て前鶴さんを待った。気分が高揚して、手にしたカバンを振り回しそうだ。
「まだかな」

普段はした事も無いのに夜空を見上げた。
瞬く星が今夜の僕を祝福しているみたい。鶴前さんと二人で飲むなんて、感激だ!

「ごめーん。お待たせ。行くよー!」
 え? この甲高い声は商品部のお姉さんではないか。えっ、人が増えている。
「つ、鶴前さん?」
「賑やかなほうが良いでしょう?」
 
あなたは何て罪な人なのだ。僕は五秒前まで二人きりで飲むと思って喜んでいたのに!

「ケンちゃんたら怖い顔-。どうしたの」
「いっ、いいえ。何でもありません……」
「さすが番犬ね! 私達にまで威嚇しているみたいよ」
 

その通りだよ、帰れ・帰れ!


「違いますよ。ケンちゃんは照れているのです。大きな体なのに控えめな性格で、僕に対しても緊張するくらいですから」
 
鶴前さん、少し違います。

「そうなのね、可愛いわ!」 
「ケンちゃんには悪いけど、急なお誘いだから一杯だけね。後はハルちゃんと気の済むまでお話でもしたら良いわ」
 
よし! そういう事なら大歓迎だ。

「行きましょう!」
 元気を取り戻した僕は皆と連れ立って、近場の居酒屋に入った。
 賑やかな店内は勤め帰りのサラリーマンが席を占めていた。
僕達はカウンターに並んで座って、チューハイに始まり揚げ出し豆腐やソーセージをつまみながら話に花を咲かせた。

「ハルちゃん、週末に海へ行かない? 私が車を運転するわよ」
「海ですか。もう何年も行っていないな」
 飲み始めて、かれこれ一時間は経過している。
それなのにお姉さん方が帰る気配が全く感じられない。話が違うじゃないか。

「あれ、ケンちゃんたらムスッとしているわね。お酒を飲んだらテンションが下がるタイプかな?」
 近寄るな、酔っ払い。しなだれかからないでくれ。

「ケンちゃん。ハルちゃんを頼むわよ」
「えっ?」
 チューハイを噴出しそうになった。
「ハルちゃんって、皆に気を使いすぎなのよ。まあ、特にあの迷惑小僧に対してだけど」
「それは……大和さんの事ですね?」
「勘が良い。大当たりよ、ケンちゃん」

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