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その罪の無い笑顔に、好意は期待できない。

「ご、ごめんなさい。でも僕、キスが出来て、物凄く嬉しかったのです」

「えっ」
しまった、何て事を! もう鶴前さんの顔が見られないよ!
「何でもないです!」

腿を押さえながらダッシュで営業部を飛び出すと、エレベーターの前に来た。
急いで下向きのボタンを押したけど、なかなか来ない。
「あ、何で。口走ってしまったのだろう」
汗が出てきた。きっと今頃、鶴前さんは僕を変態だと思っているだろう。
もう二度と合えないかもしれない。覆水盆に返らず、ああ、僕は何て事を。

「ケンちゃん」
「ぎゃんっ」
「……そんなに大きな体で、きゃんって鳴くの? 可愛いなあ」

どうして追いかけてきたのだろうか。
恥かしくて逃げ出したのに、こうして追い討ちをかけて止めを刺したいのだろうか。

「一万円を返すね」
「あ、すみません……」
そうか、このせいか。恥かしいな。

「それからこれ、僕の携帯番号とアドレス。学校が終わったら連絡をくれるかな? 忙しかったらバイトをお願いしたいので」
「あ、はい」
 番号の書かれたメモをくれた。さっきの事は聞き流してくれたのかな? 


「それから……仕事とプライベートは別にしたいのだけど」
 あっ。やっぱり、告白もしていないのに振られるのか。あんな言い方では当然、嫌われるよな。


「ケンちゃんといると楽しいよ。仕事は進むし、今まで張り詰めていた事が楽になった。それに、何かドキドキするし」
「えっ?」

半開きの唇が艶かしい。そ、その唇がキスしてくれたのだよね。

「ケンちゃん、僕は」
その先が聞きたいのに、無情にもエレベーターが到着した。
そしてドアの向こうから生理的に受け付けない人が現れた。

「ハル! お迎えをしてくれたの」

 ……大和さん。どうしているの?


「お疲れ様です、大和さん」
「ランチに行こうよ、ハル! おなかが空いてさ、会議どころじゃ無かったよ」

僕をスルーしているのは構わないけど、昨夜の電話の調子と全然違うし、やけにべたべたしているなあ!

「あれ、犬飼くんじゃないか」
「僕は犬山です、部長」
「ああ、すまない。きみは学校じゃないのかね? どうした?」
「いえ、その。忘れ物をしたので……」
「そうか」
部長と話をしていても大和さんに連れて行かれた鶴前さんが気になる。
遠くなる後姿をみていたら、部長が肩を叩いた。

「ハルくんが作成したデータのおかげで、大和は大口の取引が成立したのだよ」
「それでハイテンションなのですか」
「それとまあ、もう一つ良い事があって」
 
まだあるのか。大和さんの気分とは逆な人生を歩みそうだな、今の僕は。

「迷惑小僧、結婚が決まったのだよ」
「はいっ? 相手は?」
我侭な大和さんに、本当に相手がいたのか。

「お付き合いして、もう五年になる女性でね。プロポーズの返事が今朝あったそうで、あのハイテンションさ。しかし、きみはどうしてそんなに興味を示しているのかい?」
「あ、いえ。その」
「ああ、ハルくんが心配なのか。大丈夫だよ、聞いたら喜ぶさ」
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朝は筋肉痛で容易に起き上がれなかった。
腰も痛いけど足が重い。バスケで鍛えていたのに何故だ。

「ケン、学校はお休みなの?」
母さんが山の様な洗濯物を担いでいる。朝から大変だな。本当に女性は強い。
「午後から行くよ」
「大学生はのんきでいいわねえ。で、バイトはお休み?」
「うん、一日中勤務出来る日だけだから。週に三日しか行かないな」
 
そうだ。それを鶴前さんに言っていなかった! 
気持ばかりが先走って立ち上がったら激痛が全身を貫いた。
「痛い!」
 しかし、行かなくちゃ。僕を待っている人がいるのだ。
「ケン、大学は午後からでしょう?」
「バイトだよ、バイト!」
「よくわからない子ねえ」
「母さん、湿布はどこ?」
 
腰と足に湿布を貼って、ぎしぎしと動く体を無理やり前に進めた。
乗った電車の揺れる度に電流が走るよう。
このくらい、数時間で消えるはずだ、頑張れ、自分。

会社に着くと急いでエレベーターに乗った。
五階を押して、やれやれと一息つく。
今頃は電話の洪水だろうか、少しでも役に立てたら良いのだが。
焦る僕に合わせたのか、エレベーターはチンと音を鳴らして扉を開けた。

「えっ」
 開いたドアの向こうに鶴前さんがいた。

「おはようございます」
僕を見てびっくりしながらも笑顔で挨拶をしてくれた。あ、今日も可愛らしい。

「お、おはようございます。あ、もう五階に着いたのですね」
「違うよ、ここは三階。ケンちゃん、今日はお休みではなかった?」
 
あ、知っていたのか。人事担当に聞いたのかな。
エレベーターに乗り込んできた鶴前さんを見ながらドアを閉めた。

「すみません。昨日その事を伝え忘れていたので、鶴前さんに迷惑をおかけしていないかと心配で……来てしまいました」
「責任感が強いね。わざわざありがとう」
今日もブランド物のスーツだなあ。
スリムなデザインで、仕立てが良いのがわかる。

「そうだ、ケンちゃん。お金を返すから営業部までいいかな」
「お金?」
「タクシー代だよ。あれからちゃんと帰れたの? 一万円札を渡すなんてきざな真似をしなくて良いのに。心配したよ」
「あ、歩いて帰りました」
「えっ。大丈夫? だって自宅は隣街だろう、電車で三つ向こうの駅だから……」
「大丈夫です。犬ですから!」
僕の言い方がさぞおかしかったらしく、鶴前さんが噴出した。ああ、この笑顔が好きだ。
談笑しながら営業部に着いたら、電話もならない静かな空間だ。昨日とは違うな。

「実は朝から電話回線が不通でね。パソコンも使えない状態なのだよ」
「えっ! 大変な事態じゃないですか!」
「でも今日は営業担当が会議だからね、特に支障はないし。さっき商品部のパソコンが起動したから、ここも復旧するだろう」
 さらっとしているけど大変なことでは?

「気にしないで、学校へ行きなさい」
「でも、復旧したら入力もあるでしょう?」
「ケンちゃんは学生だ。学業を優先して」
「じゃあ、終わったらまた来ます!」
「えっ。悪いよ、そんな……」

「僕は前鶴さんの力になりたいのです」
「え」
鶴前さんが椅子に座り損ねて床に尻餅をついてしまった。

「わわ、大丈夫ですか!」
「みっともないところを見られちゃったな」
ふふっと笑って立ち上がろうとしたので手を差し伸べた。
「捕まってください」
「あ、ありがとう」
 ぎゅっと握った手を引き上げようとして、急に足に激痛が走った。

「いてっ!」
「ケンちゃん?」
 しまった、筋肉痛が……。我慢だ、堪えきるのだ!
「何でもないです、気にしないで!」
 
ぐいっと引き上げると、ようやく鶴前さんを立たせる事が出来た。
こんな些細な事でも助けになりたかったので嬉しい。
心の中ではガッツポーズだけど、実際は両膝をついてしまった。ああ、格好悪いな。

「もしかして筋肉痛?」
「はい。鍛えていたのにおかしいですよね」
「おかしくないよ。ごめんね、ありがとう」
 僕の頬に指が触れた。

「可愛い番犬にご褒美をあげたいのだけど、今はこれしかないな」
 
言いながら前鶴さんの顔が、ぐっと近づいた。
甘い香りがした。そして僕の唇に柔らかい何かが触れた。
それは唇を吸って、口の中に入り込んできた。これって、まさか?

「ん」
息遣いに漏れるこの声にビクンとした。やがてゆっくり離れた唇を見つめてしまう。

「あの……」
濡れた唇を指でなぞった。どうしよう、心臓が爆発しそうだよ!

「ケンちゃんの顔、真っ赤だよ。ごめん、ふざけているのではなくて、その」
あ、その先の言葉が聞きたい。もしかして、期待をしてもいいのかな!

「商品部でチョコレートをもらって食べたばかりだから、味が伝わるかなあと思って」
 
はい? 何だって?


「甘かったでしょう?」
「はい。確かに甘かったです。……って、前鶴さん!」
「どうかした?」
本当に天然なのかな。

「からかわないでください」
「そんなつもりは無いよ?」

そっと握り返した。でもきつくないだろうか、凄く心配だ。こんなに細い指だもの。
「もっと、いいよ」
「えっ?」

「もっと、ぎゅっとして」
 
その掠れる声に震えが来た。そしてようやく僕は気づいた。
誰も彼もが鶴前さんに感情を押し付けてばかりで甘えていた。

それをずっと受け止めていた鶴前さんは気丈に振舞いながら辛い気持を隠していたのだ。

「さっきは、すみませんでした」
 目頭を押さえた。僕は大和さんの事を言えない、感情のままに振舞う子供だった。
「何を謝るの。ケンちゃんは正しいよ」
 やさしい声で納得させないで。違うと言って欲しい。もう二度と困らせたくないよ。

「早く大人になりますから」
 振り絞った声は届くだろうか。

「僕でよかったら、甘えてください」
「ケンちゃ?」 
 そんなに潤んだ瞳で見上げられたら、理性が吹き飛びそう。お、落ち着け。
「あ、ほら。あの、僕は体を鍛えているので、どーんと、ぶつかってきても平気ですから」
 いや違う、そうじゃなくて。僕は気持を受け止めてみせるとか、クールに決めたいのに。
「ありがとう」
 言葉が足りない僕の言い方でも伝わったのだろうか。前鶴さんは微笑んでくれた。

 タクシーを拾い、うとうとしている前鶴さんを後部座席に座らせた。
運転手さんにメモを渡して、僕の財布の中から奇跡的に入っていた一万円札を預けて「お願いします」と一礼してタクシーを見送った。
 財布は空っぽだ。さて僕はどうやって帰ろう。ここから家までは、歩くと一時間はかかるかな。

「酔い覚ましだ、歩こう」
 徐々に灯りが消えて行き、眠りに入る夜の街を黙々と歩く。
静寂な空間にたった一人でいる寂しさよりも、自分がまだ大人じゃない現実が辛く感じた。
 
気持を伝えられない、もどかしい子供のままだ。
月日が過ぎただけで二十歳になっていた。いい気になってはいけない。
大人になりたい。大好きな人を安心させたい。僕は鶴前さんの力になりたいのだ。



18話に続くのだ。やけに長いな―。すみません。
「ん、」
 瞼が重そうだけど携帯を操作してユーザーの画面を開いて見せてくれた。
「お借りします」
 携帯を受け取ると鶴前さんが倒れない様に片手で抱き寄せて、急いでメモに住所を書き写す。
これをタクシーの運転手さんに渡せば前鶴さんを運んでくれるだろう。

「……わ!」
 いきなりバイブが鳴ったので驚いた。
こんな時に着信か。
しかも相手の名を見て息を呑んだ。<ヤマト>って、あの大和さんか!

「鶴前さん?」
 呼んでも僕の左脇に顔を突っ込んだまま動こうとしない。
まさか立ったまま寝ているのかな。これでは僕が出るしか無い。

「は、はい。鶴前の携帯です」
『誰?』

「すみません、犬山です」
『……おまえがどうして? ハルは? おまえ、ハルと一緒なのか。今、何時だと思っているのだよ、勝手に連れまわしているのか? ハルと代われよ!』

「前鶴さんはちょっと、電話に出られなくて。あの、お酒を飲んで寝てしまいまして」

『起こせ!』

「そんな」
『急用なのだよ! 早く代われ!』
 電話口で怒鳴る人は初めてだ。そんな人はドラマだけと思っていたけど、本当にいた。

「ハル……鶴前さん、起きてください」
「……ん」
 僕の脇でごそごそと動く前鶴さんが愛しく思える。起こしたくない。だけど……。

「鶴前さん。……大和さんからお電話です」
 言いたくなかった。でも、名を出せばおきる気がした。
「……大和さ、」
 はあ、と息を吐きながら前鶴さんが顔を上げた。
そして前髪をかきあげて足元がふらつき、僕にしがみついた。
「大丈夫ですか?」
「うん、ごめんね。携帯をくれるかな?」
「はい……」
 
携帯を渡すと前鶴さんは開口一番に「すみません」と謝った。
頬を赤くして目を伏せながら、その後は黙っている。
大和さんが怒鳴り続けているのだろうか。……やはり起こすべきではなかった。

しかし大和さんから電話があったのに起こさなかったと知ったら、前鶴さんがへこむ気がしたのだ。
僕は一瞬の判断ミスをして鶴前さんに無理をさせてしまった。唇を噛んで俯いた。
「失礼します」


鶴前さんが携帯を閉じた。
二分くらいだろうけど、凄く長く感じた通話時間だった。

「あの。プライベートの時間なのに、急用で電話がかかったりするのですか」
「営業部だからね。朝一番に片付けてと急な依頼があるのさ」
「それは、でも、時間外でしょう。明日の朝では遅い話なのでしょうか」
 
僕は間違っている。
こんな事は前鶴さんにではなく大和さんに言うべきで……。
さっき松田さんに言われたばかりなのに僕は前鶴さんを責めてしまった。


「ケンちゃん、手をつないでもいいかな」
「えっ?」
 僕の指に細くて折れそうな前鶴さんの指が触れた。
「暖かいね。子供みたい」
 また子供扱いか……。
「鶴前さんよりは子供ですけど、でも、僕も大人になりかけです」
 気持の上で背伸びしてみた。
「ケンちゃんは大人だよ。しっかりしていて頼りになる」
 え、そんな。
「そんなこと、無いですよ」

「……僕も、あの人も大人の振りをしているだけなのかもしれない」

「ええっ?」
 素っ頓狂な声をあげてしまった。

「おかしいだろう、大和さんと僕。個人的な付き合いは一切せずに、仕事上の相方、その絆を信じているのだけど」
 酔っているのかな。頬が赤いのが気になる。
「気がついたら日常の殆どを侵食されていた。弱い僕では大和さんを支えきれない」
 ズキンと胸が痛い。鶴前さんの苦悩の滲んだか細い声が心からの悲鳴に聞える。
「あの、どこかに座りませんか?」

「このままでいて」
 指が絡まってきた。ドキドキしていたら、ぎゅっと握られた。
「鶴前さん?」
「ごめん。嫌じゃなかったら、にぎり返して欲しい」
「い、嫌じゃないです。全然です」
思わず松田さんの隣の鶴前さんを盗み見た。
こんな会話が鶴前さんに聞かれたら悲しい顔をされてしまいそう。

「大丈夫よ、竹中と話し込んでいるから」
 
松田さんが煙草を銜えて火をつけた。
この会社の人は喫煙者が多いのかな。

「大和くんはね、いつも納期の厳しい注文ばかり受けてくるのよ。それを私達商品部が工場側やメーカーさんに頭を下げて何とか間に合わせているのだけどね、その裏事情を知らないから図に乗る。他社よりも早く納品できますなんて、とんでもない営業をするの。顧客は増えるだろうけど会社としてはどうなのかな。メーカーさんとの良き信頼関係が保たれないから諸刃の剣よ。その被害に遭っているのがハルちゃんなのよね」
「ハル……いえ。鶴前さんが?」
 
さっきも大和さんが鶴前さんにコピー機の見積もりを急がせたな。
この目で見たから松田さんの話に納得する部分がある。
しかし被害とは尋常な言い方では無い。

「営業部は事務がハルちゃんしかいない。だから自然と他部署からの苦情はハルちゃんに圧し掛かるの。まあ、殆どが私達商品部からの大和くんに対するクレームだけどね」

「それは直属の上司に訴えた方が良くないですか?」

「賢いわね。だけど無理を通す大和くんは営業の成績が良い。だから上司は黙認しているの。埒が明かないから皆がハルちゃんに愚痴る。でもハルちゃんは大和くんの相方だし、気を使う性格からか、軋轢が生じない様に私達に頭を下げて回って、大和くんには逆に励まして力になろうとする。大和くんはお蔭で気分良く仕事をしているわよ。それが余計にハルちゃんを追い込んでしまうのにね」

 酷い話だ。僕には鶴前さんがあらゆる非難から大和さんを護っていると聞えた。

「只でさえハルちゃんは事務の仕事で手一杯なのに迷惑小僧が難題を押し付ける。大和くんがハルちゃんより二つ年上だからって、気を使いすぎ。そして大和くんは威張りすぎ」
 チューハイを一口飲んだ。氷が説けて薄くなっているはずなのに、舌に苦みが残る。
「ハルちゃんは気を使いすぎて、たまにパンクするの。助けてあげて、ケンちゃん。きみといるとハルちゃんはとても楽しそうだし」
「そ、そうですか?」

 凄く良い事を言ってくれた。嬉しい。

「気が楽になったのだと思うよ。ほら、事務を補佐してもらえるから」
 
そういう事か。
鶴前さんの助けになれたのも嬉しいけど、もっと違う何かを期待しかけていた。
……僕は鶴前さんに対して、本気になっていたのだ。

「見てごらん、ほら」
 松田さんが椅子を引いてくれたので前鶴さんの横顔がはっきり見える。
ああ、楽しそうに笑っているなあ。

「ねえ、可愛い笑顔」
「朝から前鶴さんは笑顔でしたよ」
「ケンちゃんのお蔭。あの愛くるしい笑顔が私達の生きる支えだからさ。頼むわよ、番犬。ハルちゃんが倒れない様に護るのよ!」
 
ドンと背中を叩かれた。女性なのに、何て力強いのだろう。
勢いで咽ているのに甲高い笑い声が聞えている。怖い人だ。

「ケンちゃん?」
 僕の後頭部を撫でながら耳元で囁く人がいる。こ、この声は間違いない。
「そんなに心配そうな顔をしなくて良いのよ、ハルちゃん。大げさよー、番犬はコロッケを喉に詰まらせただけ」

「松田さんが叩いたのを見ましたよ?」
「あらあ。目敏い」
 また甲高い声で笑い出した。世の中で一番強いのは女性だ。僕は今こそ確信した。

「よしよし。おいで、ケンちゃん」
 えっ? 今、何て? 顔を上げたら椅子に座った鶴前さんが自分の膝を指している。
「ハルちゃん、そんなに大きな子を膝に乗せたら骨が砕けるわよ」
「大丈夫、男だもの。さあ、おいで」
 
その言い方にドキンとした。全然酔っていないけど、これは甘えても良いのだろうか。

しかし華奢な膝の上に僕が座ったら前鶴さんが悲鳴を上げてしまうだろう。
……あ、その声が聞きたい。……いや、ダメだ!

「お二人とも自宅が遠いですよね、そろそろお開きにしませんか?」
「あら、もうこんな時間。帰りましょう」

 ああっ! 葛藤しているうちに、話題が変わっている。
……この脱力感はチャンスをふいにしたせいだ。
再チャレンジの機会はあるのだろうか。しゅんとしたまま店を出る。
「今日はありがとうございました」
「私達も楽しかったわ、また明日ね」
 
お姉さん方と店の前で別れて、僕は前鶴さんと二人きりになった。
何だか意識して、何を話して良いのかわからないな。
お酒を飲んだせいか夜風が心地よい。
このままぼうっとしていたら寝てしまいそうだ。
火照った頬をぱちんと叩いていたら、袖を引かれた。

「眠い」
 鶴前さんが僕の腕に寄り掛かった。
「ま、鶴前さん?」
「ごめん……はしゃぎすぎた」
 小さな声で呟くと瞼を閉じてしまった。これがパンクか? 
「鶴前さん、送りますから、自宅の住所を教えてください」
「……飲酒運転は、ダメだよ」
「タクシーで送ります!」
あははと笑い出した前鶴さんにドキドキが止まらない。
まさか、の展開だ。

「お酒くらい、いいじゃない。ダメかな?」
 小首を傾げられて、卒倒しそう。
「喜んで、どこへでもお供します」
 心の中でガッツポーズだ。

 
営業部に戻るとメタボリックな部長が帰り支度をしていた。
「部長、お疲れ様です」
「ハルくんも、お疲れ。大和の奴は勝手だな。どうにかしないといけない」
「でもあれがあの人の良い所ですから」
「そうやってハルくんが甘やかすから、あいつが図に乗るのかもしれないぞ」
「すみません」
 
鶴前さんが謝る事なのか? 元はと言えば大和さんだろう。


「ああ、犬飼くんもお疲れ」
「犬山です」
「おお、すまん」
 部長がのそのそと出て行くのを見ながら、ふっと噴出した。

「名前の呼び違いは多々ありましたが、犬飼と呼ばれたのは初めてです」
「失礼な部長でごめんね、ケンちゃん」
「気にしていませんから。早く飲みにいきましょう」
「そうだね」
 
 先に外に出て前鶴さんを待った。気分が高揚して、手にしたカバンを振り回しそうだ。
「まだかな」

普段はした事も無いのに夜空を見上げた。
瞬く星が今夜の僕を祝福しているみたい。鶴前さんと二人で飲むなんて、感激だ!

「ごめーん。お待たせ。行くよー!」
 え? この甲高い声は商品部のお姉さんではないか。えっ、人が増えている。
「つ、鶴前さん?」
「賑やかなほうが良いでしょう?」
 
あなたは何て罪な人なのだ。僕は五秒前まで二人きりで飲むと思って喜んでいたのに!

「ケンちゃんたら怖い顔-。どうしたの」
「いっ、いいえ。何でもありません……」
「さすが番犬ね! 私達にまで威嚇しているみたいよ」
 

その通りだよ、帰れ・帰れ!


「違いますよ。ケンちゃんは照れているのです。大きな体なのに控えめな性格で、僕に対しても緊張するくらいですから」
 
鶴前さん、少し違います。

「そうなのね、可愛いわ!」 
「ケンちゃんには悪いけど、急なお誘いだから一杯だけね。後はハルちゃんと気の済むまでお話でもしたら良いわ」
 
よし! そういう事なら大歓迎だ。

「行きましょう!」
 元気を取り戻した僕は皆と連れ立って、近場の居酒屋に入った。
 賑やかな店内は勤め帰りのサラリーマンが席を占めていた。
僕達はカウンターに並んで座って、チューハイに始まり揚げ出し豆腐やソーセージをつまみながら話に花を咲かせた。

「ハルちゃん、週末に海へ行かない? 私が車を運転するわよ」
「海ですか。もう何年も行っていないな」
 飲み始めて、かれこれ一時間は経過している。
それなのにお姉さん方が帰る気配が全く感じられない。話が違うじゃないか。

「あれ、ケンちゃんたらムスッとしているわね。お酒を飲んだらテンションが下がるタイプかな?」
 近寄るな、酔っ払い。しなだれかからないでくれ。

「ケンちゃん。ハルちゃんを頼むわよ」
「えっ?」
 チューハイを噴出しそうになった。
「ハルちゃんって、皆に気を使いすぎなのよ。まあ、特にあの迷惑小僧に対してだけど」
「それは……大和さんの事ですね?」
「勘が良い。大当たりよ、ケンちゃん」

「ど、どうしてですかっ?」
「大和さんが歓迎会をするって言っていたから。多分ケンちゃんに都合も聞かないで突っ走っているだろうと思って、聞いた」
「よく、わかっていますね……」
「うん。少しね」
 
少しじゃない。かなり把握している。

「営業担当は妻帯者が殆どだから急な事には参加出来ないよ。人は集まらないと思う。ごめんね、きっと大和さんと僕くらいだ」
「ある意味、凄い面子ですね」
「大和さんの事、苦手かな? お酒を飲ませておけばおとなしいから大丈夫だよ」
「……鶴前さんは飲めるのですか」

「僕はどうかなあ。飲ませてみれば?」
 ええっ! そんな言い方をされたら困る。
 鶴前さんは僕をからかっているなあ。

「そうだ。商品部のお姉様方を呼ぼうか。賑やかになるよ」
「それは……」
 
あの甲高い声とお酒か。
確かに賑やかだろうし、大和さんがいても気が紛れそう。

「でも、あの人達は独身だから気をつけて」
「えっ! 僕は大丈夫ですよ」
「あはは。狙われるよ」
 
狙われているのは鶴前さんだろう。こんなに可愛い顔をして独身、いや独身だよな?

「鶴前さんって独身ですか?」
 あっ。聞いてしまった。

「うん、ほら。指輪をしていないだろう」
 ひらひらと左手を見せてくれた。安心しつつ、蝶々の様に舞うその手を目で追いかけた。
「どうしたの」

「いや、つ、前鶴さんも意外だけど、や、大和さんも男前なのに、結婚していないなんて、びっくりです」
 動揺して噛んでしまった。

「大和さんはお付き合いしている人はいるみたいだけど、僕はよく知らない。仕事とプライベートは分けたいから」
 
まただ。やけに憂いを帯びた表情になる。

「鶴前さん?」
「あ、ごめん。大和さんにお店の手配を頼まれていた」
 

携帯を取り出して検索を始めてしまった。
いつもの店、この言い方でわかるなんて阿吽の呼吸なのか。
 
悔しいな。僕は鶴前さんに今日会ったばかりだけど惹かれているのだ。
可愛い外見に加えて、社会人なのにデスクの上を走った姿とか、妙に大人な表情も気になる。
ランチで話はしたけど満たされない。
鶴前さんをもっと知りたいのだ。だから大和さんに差をつけられている感が拭えない。

「あ、通じないな。珍しい、話中か」
 
壁に寄り掛かりながら鶴前さんを見ていたら背中に振動が伝わる。
慌しい靴音が近づいてきた。これは嫌な予感だ、鳥肌が立つ。
「ハル! 今日は中止だ」
「えっ。どうしましたか?」
「皆に怒られた、急に言い出すなって。予定もあるから一週間後くらいが妥当だってさ」
「そうでしたか。折角大和さんが企画してくださったのに残念ですね」
 
ええ? 大和さんの我侭でしょう?

「違うよ、ハル。延期だから別に良いのだ」
「大和さん、その心配りが素晴らしいです」
 
ええ? 甘やかしすぎ!

「ハルにそういわれると嬉しい。俺は間違っていないよね?」
「ええ、僕は大和さんを尊敬していますよ」
「ありがとう、元気になったよ。お疲れ!」
「お疲れ様です」
 
大手を振って出て行く大和さんにお辞儀をしている。この二人の関係はどうもおかしい。

「鶴前さん、変ですよ?」
「大和さんの事? あの人は誉められて伸びるタイプなのだよ」
「えっ。それにしても……」
「んー。ケンちゃん、今晩空いている?」
「それは中止だって、大和さんが叫んでいたじゃないですか」

「僕と、飲まない?」
 上目遣いをされて心臓が飛び跳ねた。

「えっ。いいのですか?」

「いいって? 何が」
 あははと笑い出した鶴前さんにドキドキが止まらない。まさか、の展開だ。


14話に続くのだ。誤字がありそうでびびりがち。
給湯室でへこんでいたら足音が聞えてきた。
てっきり鶴前さんだと思って笑顔で出迎えたら、何と大和さんだった。

「お疲れ」
「あ、お疲れ様です」
 
手にしているのは、さっき鶴前さんがお茶を入れていたカップだ。
ちゃんと飲んでくれたのか。前鶴さんが見たら喜ぶだろうな……。
そう思う自分が悲しい。

「ちょっとそこ。いい?」
「はい?」
 僕をどかして大和さんはカップを自分で洗い出した。
「えっ。僕がやりますよ」
「いいよ、自分のだから」
 
意外だ。僕は鶴前さんに片付けさせると勝手に思い込んでいたのだが。

「家でも自分の分は洗うし」
 ささっと洗い終えた。手際が良い。

「犬山くんだっけ」
「あ、はい」
「煙草、吸う?」
「い、いいえ」
「ふうん。じゃあ失礼するよ」
 
煙草を銜えると換気扇を回した。
紫色のライターで煙草に火をつけると、白い糸のような煙が伸びてきた。

「どうしてこの会社のバイトに来たの?」
「えっ。……商社の仕事は、将来の役に立つかもしれないと思いまして」
「大学を卒業したら、この仕事を希望?」
「まだ、決めていませんが」
 
大和さんは「ふうん」と呟いて白い息を吐き出した。つまらなそうだな。僕もだけど。

「商社は激務の割に給料が安いよ。営業成績を上げても反映されるのは半年後だし」
 

初対面で愚痴られても困る。
「はあ」としか言えないので話が続かない。
僕が警戒しているせいもあるだろうけど、大和さんと僕は話が合わないと思う。


「歓迎会をしよう」
 

突然、何を言い出すのだ。
第一、僕の事を気に入っていない感じがしたのに何故だ。

「お酒は飲めるだろう?」
「あ、はい。少しですが」
「今日開催しよう、憂さ晴らしだ」
 
憂さ晴らし? 僕は名目上で、自分が飲みたいだけか!

「皆に話そう」
 
大和さんが煙草を放り出して駆けていった。
煙草を消せ。そしてその前に僕の予定を確かめろよ! 本当に勝手な人だ。


「ハル! いつもの店に予約を入れて。歓迎会をするのだよ」
 
とんでもない声が聞えた。
大和さん、皆の予定の確認が先だろう! 止めなければと慌てて給湯室を出ると何かにぶつかった。
「あ、すみませ……」
「ケンちゃん?」
「ああっ! すみません、鶴前さん!」

 こんな細い体にぶつかってしまった。ケガをさせていないだろうか!

「ケンちゃん、何度も謝らないで。僕が前をよく見ていなかったからだよ。ごめんね」
 微笑んでいるけど鼻がほんのり赤いぞ。しまったー!
「鶴前さん、冷やしましょう」
「え、大丈夫だよ」
 
ふふっと微笑みながら、何故か僕のお尻を叩いた。

「それよりこの腕を離してくれないかな?」
 はっ! いつの間に僕は前鶴さんを抱き締めていたのだ。は、恥かしい!
「すみません!」
「あはは。面白いねえ、ケンちゃん」
 
あ。ケンちゃんと呼んでくれた。さっきもそうだ、ぶつかった時もケンちゃんって。

「鶴前さん。あ、ありがとうございます!」
「何が?」
「その、呼び方が嬉しいです」
「……お礼なら、僕の方だよ。こんなに良い子がバイトで来てくれて嬉しい」
 
前鶴さんは給湯室の換気扇を止めた。
そして大和さんが濡らした流しを拭いて、出しっぱなしのカップを片付けた。


「今晩、空いている?」
 えっ?
「おいおい、大和。何を苛立っているのだ?営業先で何があったか知らないが、八つ当たりは止しなさい」
 
メタボリックな人が注意をしている。そうか、大和さんの上司だな。

「はい。すみません」
 
え。素直に引き下がるのか。じゃあ本当に八つ当たりなのか? 酷いな、この人。

「犬山くん、おいで」
 
ごめんね、と僕に頭を下げながら呼ぶなんて。
鶴前さんが謝ることは無いのに!

「大和さん。こちらが犬山くんです。僕のサポートをしてくれるので、何かと関わる事が多いと思います。よろしくお願いします」
「あ、うん。よろしく」
 

頬杖をついて僕を見るなんて、いくら何でも大人の態度としておかしい。


「大和さん、この子は背が高いのですよ」
「へえ?」
 
興味を示したのか、がたんと立ち上がって僕を見た。
並ぶと僕よりも少しだけ大和さんの方が背は高い。

「あ、本当だ! 結構、高いね。それに何だか体ががっちりしているなあ」
「高校生の時にバスケをやっていたそうです。体力は勿論、データ入力も速くて正確で助かります」
「そうか。出来の良い奴は歓迎だ。よろしく、犬山くん」
 
いきなり肩を叩かれてしまった。態度の急変に驚いたけど、さりげなく大和さんを椅子から立たせて場の空気を変えた鶴前さんに、気配りの真髄を見た。

「ハル、ところで西店のオーナーが明後日までにコピー機を導入したいそうだ。見積もりはすぐに作れるよね」
 
おいおい、大和さん。
今は夕方だから明後日といっても時間が無いじゃないか。
素人の僕でも、これは難題だと察知した。

「商品部に掛け合いましょう。先方はどの程度の性能をご希望なのでしょうか」
「性能は二の次だ。在庫のある物を適当に、二つくらい見繕って選ばせよう」
「わかりました、即納品可能なものの中から選んでみます」
「頼むよ。俺はもう、くたくたなのだ」
 
何て我侭な人なのだろう。仕事で疲れるのはお互い様じゃないか?
 
鶴前さんは商品部に内線電話を掛けて、依頼をしているようだ。
やけに頭を下げている。
何だか心配だけど、やがて鶴前さんの右手はパソコンのキーを打ち始め、電話を切ったと同時にプリンターが動いた。

「これでいかがでしょうか」
 
その声で大和さんがプリンターに手を伸ばした。

「早いね! ありがとう、ハル」
 
大きな声に、営業担当の人達が顔を上げた。

「大和。いい加減にハルくんを独り占めするのを止めろ。大事な事務だぞ、ハルくんの力を皆が欲しがっているのに」
「ダメです、ハルは俺の相方です。俺の仕事のサポートを最優先にするのだから、俺以外は誰もハルを使わないでください!」
 
独占宣言だ、どこまで勝手な人だろう。

「そんな事を言うのなら、おまえがハルくんの給料を払え」
「無理ですよ。俺の給料は安いのに!」
 
わはははと明るい笑い声が響いた。

「ハル、お茶が欲しい!」

雑談で賑やかになった部署を出て、給湯室に前鶴さんと向う途中、どうしてもいいたくなってしまった。

「大和さんって、もしかして我侭ですか」
「あの人は時々、子供なのだよ」
 

鶴前さんは給湯室の戸棚から細長いカップを取り出してトレーに置いた。

「嫌な思いをさせてごめん。あの人は仕事に対してプライドがあるから時々熱くなるけど、尊敬に値する人だよ」
 
鶴前さんは庇っている。あんな我侭な人をどうして?

「あの人は凄いのだよ。熱意のこもった言動で営業成績が右肩上がり。この会社を支えている優秀な営業担当の一人だよ。だから僕はあの人とコンビが組めて嬉しい」
 
大和さんの話になると鶴前さんの表情が少し変わる。
やけに大人びて見えるのだ。それはやんちゃな大和さんを包む、まるで母親の雰囲気を醸し出す。

「じゃあ、僕は大和さんにお茶を出してくるから。ケン……じゃなくて犬山くんは」
「ケンでいいです。そう呼ばれたいです」
「ど、どうしたの?」
「あの、僕は鶴前さんの事を舐めたりしませんから。呼びたい様に呼んでください」
「あ、うん。ありがとう」
 
可愛いなあと思ってみていたら、鶴前さんが僕の胸にこつんとおでこを当てて、そのまま体を預けてきた。

「やさしいね、ケンちゃん」
 
このまま抱き締めてもいいだろうか。
ドキドキするこの鼓動が聞かれている気がする。
腕を少しずつ上げて鶴前さんの背中にようやく触れたら、体を起されてしまった。

「お茶がぬるくなってしまう!」
 
頬を赤くしたまま鶴前さんが出て行った。
僕は自分の勇気の無さを思い知らされた。

抱き締めても、きっと良かったのだ。


11話に続くのだ。
じれったくてすみません。
本店でもエロが無いので、大弱り。
早くエロを出したいものです。
「そ、その聞き方は止めてください」
 
あらぬ妄想をしない様に、必死で大学の講義の事とか、母さんが家計は火の車とぼやく声とかを思い出した。

「眉間に皺が寄っているよ。おなかでも痛いのかな?」
「さ、触らないでください!」

「わ。凄い腹筋」
 
くすぐったいよ、困る!
 跳ね除けようとぐいっと体を押したら、掌にドクドクと鼓動が伝わる。……あれれ?

「どこを触っているのかな?」
「わ、わわ!」
 
僕の両手は鶴前さんの胸を大胆にも触っていたのだ。
これはわざとではなくて、座っている僕が立ち上がった鶴前さんに手を伸ばすと必然的に胸を触っちゃうので……。
ああ、手を伸ばすからいけないのか! もう頭の中がパニックだ!

「あはは。本当に犬だね。大型犬が飛び掛ってくる時って、まず胸を触られるよ」
 
そんな事をするのはどこの犬だ。僕の事は棚に上げて、お仕置きしたい。

「ケンちゃんは可愛いね。昔飼っていた犬を思い出すよ」
 
犬でもいい。ふと、そう思ってしまった。
 

十六時を過ぎると、どやどやと営業担当が帰社した。
メタボリック症候群を疑う体型の人や神経質そうな鋭い眼差しの人。
営業担当と一口に言っても色々なタイプがいるのだな。
鶴前さんに一人一人紹介してもらいながら、顔と名前を早く一致させようと必死だ。
営業担当が和やかに雑談を始めた時、もう一人帰って来た。

「ただいまー」
 
元気の無い声だ。
いかにも仕事をして疲れた様子。
上着を脱いでネクタイを緩めながら歩いている。

「お帰りなさい、大和さん」
 
えっ? あの人が大和さんなのか! 
何だかイメージが違うぞ。
勝手だけど、もっとハキハキしている大人なイメージを抱いていた。
 
しかし現実は違っていた。
ベリーショートの黒い髪に尖った顎がシャープな印象だけど、
二重の黒い瞳がきょろきょろと動いて落ち着きのなさを感じる。
男前だけど少し子供っぽい青年だな。
しかし無造作に扱うその上着は、イタリアの高級ブランドの物だった。子供には買えない代物だ!  

「ハル、データをありがとう」
 
椅子にどかんと腰掛けて、大きく伸びをしている。何か、偉そうな態度だな。

「どういたしまして。お疲れ様です、飲み物をお持ちしましょうか」
「お、サンキュー。後でもらう」

 何だ、このやり取りは。まるで夫婦のそれじゃないか。

「ねえ、ハル。そういえば、犬はどこ?」
「あ、ケンちゃんを紹介しますね」
 
僕に手招きをしたのでそこへ行こうとしたら、大和さんがデスクをバンと叩いた。

「ケンちゃん? ハルはバイトの子をあだ名で呼んでいるの? 良くないよ、仕事なのだからきちんとしないと舐められるよ」
「すみません。改めます」
 
何だ、こいつ……。大和さんだって鶴前さんのことをハル呼ばわりじゃないか。


10話に続くのだ。
本気で勘弁して。
お姉さん方が出て行く後姿に一礼して何気なく隣を見たら、鶴前さんが手を振っていた。
でも相変わらずチョコが付いたままで唇を拭いた形跡が無い。

舐めたいけど我慢の僕はハンカチを差し出した。
「これを使ってください」

「汚れちゃうから、いいよ」
 笑って押し返すその腕をつかんでしまった。

「え、だって。そのままでは、折角の顔が台無しですよ!」
「え? 」
「あ、いえ、その。何でもないです」
 
自分が可愛い顔をしているという自覚が無さそうだ。これは天然かもしれない。

「大きな体をして可愛いね、ケンちゃんは」
「そ、そのケンちゃんって呼び方……」
「ダメかな?」
 
どうしてこんなに甘い声なのだろう。

「いえ、是非そう呼んでください……」
 
この人には何一つ敵わない気がする。


正午を過ぎて十三時。
鶴前さんに連れられて社員食堂に入った。
まるで学食の様だけど、スーツ姿のビジネスマンや綺麗なお姉さん方を見ると、違うなあと思う。
僕も大学を卒業したら、こういう場所でランチを楽しむビジネスマンになるのも良いな。

「ミックスサンドをお願いします」
「おや、ハルちゃん。今からランチかい?」
 
食堂の人にも好かれている、やっぱり会社の華だ。
納得していたら袖を引っ張られた。

「この子には大盛りで、オススメの物を」
「新顔だね。坊主、良い体をしているなあ。沢山食べそうじゃないか!」
「よく言われます」

 頭をかいたら鶴前さんが微笑んだ。

「ケンちゃんを見ていると、何だか世話をしたくなるのですよ」
「ああ、わかる。大和さんと同じだねえ」
 
ま、また大和! その名前が出るとイライラするぞ。


「あれ? 似ていますか?」
「外見は違うよ。この子はがっちりした体格、大和さんは細身、だけどハルちゃんを見ているとわかる。気に入っているのだろう、この子の事。大和さんと同じで」
「そうですね」
 
僕を気に入ってくれているのは嬉しい! 
だけど大和さんと同じ? それは、どうなのかな。喜んで良いのか?

「ハルちゃんの素直な性格がおじさんは大好きだ。さあ、食べておいで」
 
出されたのはミックスサンドの大盛りだ。

「二人分だよ!」
 
オススメがミックスサンドなのか。

「ここのミックスサンドはね、潰したゆで卵が入っているから好き」
「僕も同じです。サンドイッチの具はゆで卵ですよね!」
「一緒? あ、嬉しいな」
 嗜好が同じと知ると話が弾む。
好きな服や雑誌の話と続いて、鶴前さんに僕の大学生活を聞かれたりしてランチも楽しく過ごせた。
 食べた後は眠くなるといけないからとコーヒーを飲んで、仕事再開。
データの入力とたまに電話の取次ぎをした。
 
単調な時間が流れている。
退屈しないのかなと横目で鶴前さんを見ると、真剣に入力を進めている。
会社員だ。子供みたいな仕草をするけど、やはり大人なのだよね。

「どうかした?」
「あ、いいえ。一応、出来ました……」
「もう出来たの? 見せて」

僕を見て微笑んでくれるから勘違いしそうだよ。

「あ、はい」
 
入力したデータの画面を開くと「わ」と小さな声をあげて目を瞬かせた。
ミスの無い様に慎重に入力したつもりだ、正確さには少しだけ自信がある。

「凄いね、大助かりだよ」
 
頭を撫でてくれた。嬉しくて照れていたら、何と喉も撫でられた。


「あ、あのう?」
「犬はここを撫でると嬉しいのだろう」
 

犬扱いなのか? でも他人に、それも真っ昼間から喉仏を触られるなんてありえない。

「気持良い?」



9話に続くのだ。
だから、あなたを意識してしまうのだ。
落ち着かない僕の耳に、カツカツと小気味よい靴音と甲高い話し声が聞えた。

「失礼しますー。ハルちゃん、おやつの時間ですよー」
 
女性の声に振り向いて、ぎょっとした。
化粧の濃いおばさ……、いや、お姉さんが二人も立っていたのだ。

「お姉様方、いつもありがとうございます」
「あらら、新人さん? 初めましてー。三階の商品部の松田と、こちらが竹中です」
 
名前よりも先に声を覚えそうだ。僕の母親と同じ年くらいに見えるけど、甲高い声だな。

「ど、どうも初めまして。バイトの……」
「ケンちゃんです」 
 
えっ? 声の主である鶴前さんを凝視したら、あははと豪快に笑われてしまった。

「いっ、犬山ケンタです」
「僕の番犬です。よろしくお願いします」

「まあ、ハルちゃんの番犬なのね。賢そう」

松田さんが持参した甘い香りのする白い箱を開けて見せてくれた。
なんとも可愛らしいケーキが四つ並んでいる。

「パティスリーマツダの新作よ。さあ、どれが良い? 最初に選ぶ権利をケンちゃんに与えましょう」
「僕ですか?」

 ケーキは好物なので嬉しい。だけど隣で指を銜えて見ている人が。

「あの。鶴前さんはどれが良いですか?」
 
順番を譲ると「いいの?」と鶴前さんの唇がゆっくりと動いて溢れんばかりの幸せに満ちた笑顔が広がった。
瞳が輝いて眩しいよ!

「ちょっと聞いた? 竹中さん」
「ええ、松田さん!」
「ケンちゃんたら、やさしい子ねえ! ご主人に忠実な犬だわ」
 
僕の幸せムードをぶち壊す、この甲高い声を辞めてほしい。
でも、そんな事は人として口に出してはならない。


「まるで大和さんとハルちゃんみたい」
 

その声にドキンとした。
何故だろう、胸騒ぎがする。

「嫌ねえ、竹中さん。大和くんとハルちゃんはコンビよ。やんちゃな大和くんを陰で支える役目なのよ、ハルちゃんは」
 
支える? どういう事だ。
驚いて隣の鶴前さんを見つめたけど、そ知らぬ顔でケーキの銀紙を剥がしている。

「つ、鶴前さん」
「なあに?」

「あのっ。大和さんって人は……」
「ケンちゃんがさっき電話で話した相手で、仕事上の僕の相方だよ。どうかした?」
 
鶴前さんがチョコレートケーキを食べている姿を見ながら、この胸騒ぎは深読みしすぎだと自分を落ち着かせた。

「どうかしら、ハルちゃん?」

「美味しい」

「やった! その笑顔が見たくて毎日通っているのよー。嬉しいわ、さあ、エスプレッソも飲んでね」
 
まるでアイドル扱いだ。驚いたけどお姉さん方が舞い上がる気持もわかる。
こんなに可愛い笑顔を見られるのなら、僕も明日からスイーツを持参したい。

「ケンちゃん、食べないの?」

 聞かれて、はっとした。僕は手元にチーズケーキを置いたまま悶々としていたのだ。

「あ、いただきます」
「食べて、食べてー」
 
一口食べて「おお!」と唸った。
甘さが控えめで、しつこくない。
もやもやした気分を一掃するにふさわしい。

「美味しいです! これは凄い!」
「まあ! 嬉しい事を言ってくれる。可愛いわねえ、この子」
 
松田さんが僕の頭を撫でている。
皆で僕を子供扱いなのか。
でも悪い気はしないなあ。

「良い子でしょう。よろしくお願いします」
 
鶴前さんが微笑んでいる。で、でもその唇の端にチョコレートがついている。

「あの、鶴前さん。チョコがついています」
「どこ?」

「舐めてあげたら? ケンちゃん」
「なっ?」
 
松田さんは何を言い出すのだ! 

「あら、照れているの。可愛いわねえ!」
「私達はこれで失礼するから、舌で綺麗にしてあげなさいよ」

「そんな事は出来ません」


8話に続くのだ―。

「そうですか。では、今から何をすればいいですか?」
「データの入力です」

 分厚いファイルの中には手書きの書類が挟まれていた。
鶴前さんがパソコンを起動させながら言うには、ここは事務用品全般を扱う商社で、
取引先は主に中小企業。
常にメールでの受注なのだが、パソコンが導入されていない企業からの受注が営業担当を通してあり、その際は間違いの無い様に別に入力したデータを管理する必要があるのだ。

「一人だとなかなか進まなくてね。犬山くんが来てくれたから助かるよ」
 
期待されると頑張ろうという前向きな気持になる。
しかし入力を始めると「へえ」と小さな声が聞えて、
しかも隣に座られたのですぐに集中出来なくなった。

「あれ? そんなに焦らなくても大丈夫だよ。急ぎの仕事では無いから、安心して」
 
焦るのではなくて、あなただ。
あなたがいると僕は良い所を見せたくなり、張り切りすぎてドジを踏む……。

「僕も隣のパソコンで入力しているから、わからない所があったら聞いてね」
 
隣はやめて。あ、でも横を見なければいいか。
しかし椅子に座る姿も眺めてしまう僕には、どこでも同じかもしれない。

「……」
 
鶴前さんはいきなり真剣な表情だ。
長い指を存分に生かして、マウスをクリックしたりテンキーを打ったり忙しそう。
……しまった、ぼんやりしてはいけない、僕も頑張ろう。

「……」
 
でもファイルの十頁分を入力したら背伸びがしたくなった。
手を休めると、やけに鼻がひくひくする。何かが香る。何だ?

「あ、やっぱり大型犬だ」
「え?」

「鼻が良いね」
「何の事ですか」

「この時間になると、お姉様方が差し入れを持ってくるのだよ」
「はいい?」
 
左手の袖を捲くり、腕時計を見せてくれた。

「ね。十一時半、覚えておくと良いよ」
「は、はあ」
 

時間は見ていなかった。
時計をはめた手首の細さが心臓に悪い。
男性用の腕時計が重そうに見えるなんて、初めての経験だ。

「犬山くん、どうかした? 顔が赤いよ」
「あ、いや。その」
「まだ緊張している? 僕しかいないのに」
 

7話に続くのだ。
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